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モルディブのチャンス到来

アジアやアフリカになると、ほとんどでたらめで、「土人」や「原住民」、「未開人」という概念で一くくりにしていたことも少なくない。
アメリカ映画に出てくる日本や日本人は、まさに日本が描くアジアでありアフリカであった。
一般のアメリカ人にとって日本人が何者であるかについて関心はなく、東洋人らしければいい。
『ハリウッドの日本人「映画」に現れた日米文化摩擦』に、アジア人として初めてハリウッド・スターとなった早川雪洲の長男の言葉が載っている。
長男は父についてこう語っている。
「日本人でありながら東洋全体を代表しているみたいなポジションを取ることができた」。
東洋を代表していたとも、あるいは東洋という大まかなくくりでしか見られていなかったともとれる。
日本人を描いたハリウッド映画については、その他に、幸い以下のような本で知ることができる。
これらの本が挙げている作品リストを見ると、日本を他国と区分する数少ない概念の言葉が含まれている戦後のハリウッド映画には以下のようなものがある。
日本で公開されたかどうか確認できない『ゲイシャ・ガール』を除くと、すべて日本題名から芸者という言葉を外していて、日米の芸者という言葉に寄せる思いが違うことがわかる。
題名についていなくても、芸者が登場する映画としては、『八月十五夜の茶屋』や『嬉し泣き』などがすぐに思いつくが、かなりの数になるに違いない。
アメリカに紹介された日本映画の英語題名にも「ゲイシャ」という言葉を入れることが多い。
ハリウッド映画ではないにしても、日本を舞台にした最も有名な映画『007は二度死ぬ』かがわかる。
「日本のゲイシャは、世間からちゃんと社会的な身分を認められていて、けっして言われるような堕落した淫らな存在ではなく、きわめて知的で教養のある職業人である」。
こういった例外もあるが、「Geisha」という言葉のイメージについての総括は、芸妓だった岩崎峰子にゆだねよう。
「多くの誤った記述や作品によって、世界じゅうの知日家、親日家といわれる人々にさえも、事実とはかけ離れた隠微な世界と思われ、従属的な女性の生きざまを植えつけられてしまっています。
」「花柳界の芸妓は、古典芸能を技芸保持を生業とする自立した女性の職業なのです。
」アメリカでは、「Geisha」とは異なり、カウボーイのイメージが強いせいか、『ラストサムライ』が出るまで、「Samurai」と題名についた大作や話題作はなかった。
メルビルは日本の武士の渋さや、禁欲的で他言をせず、仕事に命をかけるというイメージが好きだったようで、自分の映画に何度もそのイメージを使っていたが、ついには『サムライースした香水に「サムライ」と名付けた。
パリが舞台だ。
メルビルが『サムライ』で作りあげた、日本の侍を意識しているギャングには、やはりパリが似合うということか。
フランスを代表する映画監督・プロデューサー、リュック・ベッソンがかかわっている作品にも、日本語のような題名が多い。
『神風、といった具合だ。
外国の映画で日本人役の俳優がつたない日本語を喋っていることがよくある。
しかし、一般のアメリカ人は日本人が何語を喋っているか関心はない。
私は真顔でアメリカ人から「日本人は何語を喋っているのか」と聞かれたことがあるし、私の知人は一所懸命英語で喋っていたら、アメリカ人から「日本語は英語に似ているね」と言われたらしい。
民族がそれぞれの言語や表現方法を持っているということは、移民の国アメリカでは常識ではない。
容姿にしても同じようだ。
先に挙げた映画で面白いのは、ハリウッドのスターが時として日本人を演じていることだ。
ャーリー・マクレーンが芸者に化け、『サヨナラ』(監督‥ジョシュア・ローガン一九五七)ではメキシコ出身のリカルド・モルタバンが歌舞伎役者を演じている。
になっている。
ちなみに『青い目の蝶々さん』のプロデューサー、スティーヴ・パーカーはシャーリー・マクレーンと一九五四年に結婚し、一九八二年に二人は離婚している(シャーリー・マクレーン『マイエフッキー・スターズ』岩瀬孝雄訳早川書房一九七七)。
日本に長く滞在し、二〇〇三年に死去した彼の蔵書の何冊かは、本書の後で触れる柴田秀利から、私の知人である西尾安裕氏を経て私の手元にある。
外国人が芸者や歌舞伎役者になって外国人であることが判明しないという設定は、面白いことを何よりも優先させるハリウッドらしい割り切り方と言えるが、一方で、多様な文化への感受性の低さや無頓着さは常に指摘されてきた。
しかし移民の国アメリカなら、たしかにシャーリー・マクレーンの芸者や」メキシコ系の歌舞伎役者がいても不思議はないのかもしれぬ。
アメリカで日本人の顔として最も多く再生産されているのは、日本人探偵が活躍するーレの容姿であった。
一九三七年から一九三九年の間に八本も製作された人気シリーズだった。
ピーター・ローレは、ハンガリー生まれで、『M』の変質者役で国際的に知られ、渡米して『マルタの鷹』や『カサブランカ』などに出演した。
ローレ演ずる日本人探偵モトは、背が低くメガネをかけ、慰勲無礼で本心をあかさず、柔道の達人である。
ピーター・ローレが作り出した日本人のステレオタイプというよりも、一般のアメリカ人が抱いていたステレオタイプにハリウッドがピーター・ローレを当てはめたのであろう。
その後、日本人男性のカリカチュアは常にローレのミスター・モトの変形となり、その代表作が『ティファニーで朝食を』でミッキー・ルーニーが演じた日本人カメラマン、ユニオシであった。
ローレのイメージをさらにデフォルメし、出っ歯が強調されていた。
『さゆり』と『ラストサムライ』の相違こうしたゲイシャとサムライが、いまも価値を持つことを証明するかのように、ゲイシャとサムライという言葉が題名に入った、『ラストサムライ』が公開され、ベストセラー小説を映画化するもので、この小説の邦訳が出版されたとき、定石通り芸者という言葉は外され、『さゆり』となっていた。
京都祇園に生きた芸妓さゆりの半生を描いたものだが、祇園の花柳界では芸者でなく芸妓といい、そして芸妓の見習いを舞妓というため、『メモワール・オブ・ア・ゲイシャ』という題名そのものが間違っている。
リャン・ツィーが演じ、その他の重要な芸妓の役にコン・リーとミシェル・ヨーといった国際的に知名度の高い中国系の女優が配役されている。
そして、台詞はすべて英語である。
説明され、アメリカ人が日本にいる理由が説明され、描いた国に対する配慮が見られるが、記事を掲載する必要があった当時、つまり真珠湾攻撃の二週間後のままだ。
日本人の役を非日本人が英語で演じる。
それも岩崎峰子の言葉を借りるならば、日本の「古典芸能を技69芸保持を生業とする自立した女性」を日本人以外の女優が演じる。
『ラストサムライ』はこれまでに述べたように、日本映画を代表する黒澤映画をハリウッドなりに再生しようとした試みであるのに対し、『メモワール・オブ・ア・ゲイシャ』は、これまでのハリウッドが描いてきたゲイシャ映画の延長上にある。
そういう意味では『メモワール・オブ・ア・ゲイシャ』は古風な映画なのだ。
ズウィック監督は日本が日本であるように腐心した痕跡はある。
同じように、異文化を示すという試みが増えている。
という記事は、ハリウッド映画に突如として日本のイメージが蔓延していると報じている。